5chの反応(255件)
https://news.livedoor.com/article/detail/31216611/
尊氏なんかに天下を取らせることもなかった
暴れまわって領土を拡張したいってのが本音で誰も平和なんぞ要らんってことだろ
足利のなんとなくの反乱で勝てただけ
そして足利は転覆野心があり考え足らずで知略や計画性はなく場当たり的
北条や天皇の敗因は主役を北条と天皇と見て足利への対策が不十分だった
足利脅威の元同盟を結んでも足利は弱い同盟を千葉を崩す等して孤立させた
千葉は幕府に次ぐ関東最大戦力だったが北条はイニシアチブ渡さないと積極協力せず、関東武士全般を外様にした
それが足利一門の関東扇動と北条孤立を早め最大戦力たる坂東武士を味方にできず崩壊した
量的な意味では関東武士の外様化と北条の関東孤立が量的敗因
一方足利はポストを足利で硬め関東外様化で支配権を失う
物を知らないカッペか?
承久の乱の時に政子の檄文を読み上げたのは三河武士の安達景盛
三河縁故の武士が、裏でガッチリタッグを組んでいた
北条が乗り越えられなかったのは、頼朝が構築した三河システム(三河縁者が武家社会を牛耳るシステム)
男系、女系共に源頼朝に近い足利氏が使命感をもって、武家社会を源頼朝の三河システム(三河縁者が武家社会を牛耳るシステム)に戻した
その三河システムの存在は政子ちゃんは周知の事だ
頼朝やその息子孫がいなくなって、政子が頼りにしたのは三河で繋がる人々だったのは明白だろう、政子の葬儀奉行は三河守護の足利義氏だった
金剛三昧院(本尊、愛染明王は北条政子が、当時仏師として世間に名を広めていた運慶に依頼し、頼朝公の等身大の坐像念持仏として作成)
・建暦元年(1211年)、北条政子の発願により源頼朝菩提のために禅定院として創建する
・承久元年(1219年)、源実朝菩提のために禅定院を改築して金剛三昧院と改称し、以後将軍家の菩提寺として信仰する
・貞応2年(1223年)、北条政子が禅定如実として入道し、建立奉行を葛山景倫(願性)・安達景盛が務め、源頼朝と源実朝の菩提を弔うための多宝塔(国宝)を建立する
・嘉禎4年(1238年)、足利義氏は政子の十三回忌にあたり、当院に大仏殿を建立し、丈六の大日如来像を奉安して、政子と実朝公の遺骨を納める
・源実朝
藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司、額田冠者(三河国額田郡))→由良御前→源頼朝→源実朝
葛山景倫(願性)
藤原実範(三河守)→女(藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)の妹)→高橋惟康(三河国高橋荘領主)→鮎沢惟兼→葛山惟忠→景忠→景倫(願性)
・安達景盛
小田野兼広(三河国八名郡小野田)→安達盛長(三河国小野田荘地頭、三河守護)→安達景盛(三河国小野田荘地頭、1221年まで三河守護だったか?)
・足利義氏
藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司、額田冠者(三河国額田郡))→女(養女)→足利義兼→足利義氏(三河守護)
源頼朝が構築した三河システム(三河縁故者が武家社会を牛耳るシステム)、鎌倉将軍断絶後の親分は足利氏であった
この北条氏が乗り越える事が出来なかったアンタッチャブルな存在たる三河システム中の人達が大打撃を受けた事件があった、それは霜月騒動
霜月騒動で一族が打撃を受けた足助氏、後醍醐天皇軍総大将たる足助重範の生母は楠木正成の叔母と伝え、重範の嫁は楠木正成の娘だった
つまり楠木一族も三河縁者なのである
霜月騒動の仕返しをされた
霜月騒動で処罰を受けた三河縁者
・足利氏←三河守護
・安達氏(三河国八名郡小野田)←泰盛は三河国渥美郡小松原荘地頭
・足助氏(三河国加茂郡足助)←三河国加茂郡足助荘地頭、頼家に室を出し生まれた子供が公暁
・吉良氏(三河国幡豆郡吉良)
・尾張足利氏(斯波氏)(三河国額田郡青野?)
・中条氏←三河国加茂郡高橋荘地頭、中条家長は八田知家猶子
・二階堂氏←二階堂行政の母親は三河の藤姓熱田大宮司家出身、三河国碧海郡重原荘地頭
・長井氏(大江氏)←大江広元は、元々、三河の藤姓熱田大宮司家の家来か?広元の5男が藤姓熱田大宮司家に養子入り、尾張国海東郡地頭
今まで西日本に幕府があったのに、なんでいきなり東日本に移ったんだって話なるし
北条氏(自称平氏)の家臣に過ぎない御内人が幕府を仕切っててみんな面白くなかった。
北条は源頼朝を幽閉したときの見張り役だから平氏
大内氏の滅亡とか同じだな、過去最高に繁栄してたけど内から一気に崩壊していく
部外者たるカッペは、何故聞かずに想像ばかりしているのか?
◇元弘の変(1331~1333年)室町幕府の支配層、三河武士◇
【三河県岡崎市】
・足利氏(宗家、鎌倉公方):大門屋敷、近辺(八剣神社内)に足利尊氏の墓あり
・斯波氏(足利一族):管領家、奥州管領家、奥州探題、羽州探題、守護職(安房、若狭、越前、越中、尾張)、屋敷(跡地に永源寺)
・仁木氏(矢田一族):幕府執事、守護職(伊賀、伊勢、志摩、三河、遠江、武蔵、摂津、丹波、丹後、備後)、仁木城
・細川氏(矢田一族):管領家、守護職(伊賀、伊勢、志摩、摂津、和泉、河内、若狭、越前、越中、備中、備後、淡路、阿波、讃岐、伊予、土佐、日向)、細川御前田城、細川城山城、細川権水城
・上地氏(矢田一族、細川氏分家):上地城
・上地氏(矢田一族、仁木氏分家)
・高氏(足利被官):室町幕府執事、守護職(伊賀、伊勢、志摩、尾張、三河、武蔵、上総、和泉、河内、下野、丹波、石見)、屋敷(跡地に総持寺)
・上杉氏(足利被官):関東管領家、守護職(伊豆、武蔵、上野、丹後)、日名屋敷
・倉持氏(足利被官):奉公衆、便寺屋敷
・粟生氏(足利被官):奉公衆、秦梨城、秦梨城山城、梅藪屋敷、西熊屋敷
【三河県幸田町】
・大草氏 (足利被官):奉公衆
・大場氏 (吉良被官):深溝城
【三河県豊田市】
・上野氏(足利一族):守護職(丹後、石見)、奉公衆
・中条氏(足利被官):守護職(尾張)、奉公衆、金谷城
【三河県西尾市】
・西条吉良氏(足利一族):将軍御一家、西条城
・奥州吉良氏(足利一族):奥州管領家、守護職(因幡、但馬)、関東公方御一家、東条城
・一色氏(足利一族):四職家、九州探題、守護職(筑前、肥前、肥後、日向)
・荒川氏(矢田一族):戸賀崎氏分家)守護職(丹後、石見)、戸ヶ崎城
・饗庭氏(足利被官):奉公衆、饗庭城、饗庭命鶴丸
・小笠原氏 (吉良被官):幡豆小笠原氏、三河守護代
・大河内氏 (吉良被官):引馬荘荘官
頼朝が鎌倉に居を構えたのはそこしか空いてなかったから
守りやすいとかいう理由は完全な後付け
大体土地が非常に重要視された時代
何故なら先祖代々自分達で開拓していたから
手勢が全くない浪人の頼朝に誰も土地なんか与えなかった
鎌倉は頼朝の父親が荒らした土地で鎌倉の人々は当然頼朝一党を受け入れたくなかった
それでも周辺の領主達が押し付けた
鎌倉の人々、鎌倉党は周辺から低く見られていた被差別民だった